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[コメント] ショーシャンクの空に(1994/米)

チェス盤と女優の不在と抽象的な希望
minoru

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







主人公はチェスの駒に偏執しながらなぜチェス盤を必要としないのか。

主人公の頭の中ではチェック・メイトまでが読めているから、あえて「実戦」をする必要もなかったのだ。 戦いの実戦の場としての盤などなくてもかまわない。 いくつ駒を取られようとそれも計算のうちなのだ。 しかし、物としてのチェス盤の上で実際にどんなに思いがけないことが起こるか、 強風が駒をなぎ倒したり、盤が突然割れてしまうこともこの世界にはあり得るのだが、彼には(この映画には)そんな「偶然」は存在しないらしい。 そこにあるのは徹底して抽象的なチェスであり、この映画で描かれているのも抽象的な「希望」でしかない。

この映画で「先を読んで今を耐えればいずれ海辺でのんびり暮らせる」という教訓が得たいのならわかるが、 「希望を失わないことの大切さ」を見る人がいるとはにわかに信じられない。 台詞でそう言っているからだろうか。

しかし、真に頭にくるのは主人公がリタ・ヘイワースマリリン・モンローラクウェル・ウェルチも好きだとは思えない事。 彼にとってどんな女優もただ穴を隠す紙にすぎないという完全に映画に背を向けた態度。

リタ・ヘイワースの登場シーンに心奪われない主人公(この映画)に対して「映画」を見ているはずの私がどうやって「共感」すればよいのか。 ゆえにこの映画は「映画」に愛されることはない。 抽象的な「希望」と遊んでいれば良い。

(評価:★1)

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