[コメント] 野いちご(1957/スウェーデン)
映画を見終った人むけのレビューです。
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中盤をかなり過ぎるまでは、金銭的に苦労しているわけでも強く他者からの愛情を求めているわけでもないようだし、もういっそのこと彼は閉じこもったまま生涯を終えた方が気楽ではないか、とさえ思えてしょうがなかった。
私が彼の立場だったら「それなりに社会貢献もしたのだし放っておいてほしい。」と考えるに違いないからだ。話のわかる家政婦が一人いて、気心のしれた犬がいる。これ以上の贅沢は何も望んではいないのだから、後はひたすら研究に没頭させてくれ、と。昔のことは放っておいてくれ、と。<こういう考えからしてすでにダメなのだろうけど。
それなのに、どうしてあんな辛いことを次から次へと思い出さなければならないのだろう。悪夢に苛まれなければならないのだろう。それが老いというものなのか。ひどいことをしてきた人間の未来には、ああいう瞬間が待っているということなのか。そんな老後がこの先に待っているのかと思うと、ひじょうに悲しくなってくる。
彼は周囲の者たちを常に「許してきた」が、実はそれは彼の傲慢さやエゴを「許されていた」だけに過ぎなかった。実はそれは、彼の単なる冷淡と無関心、高慢の現れでしかなかった。それはわかる。しつこいほど画面から伝わってくるし、そこには自分の抱えるイヤラシサもだぶりキリキリする。反省しきりとなる。
でも、(これは考えようによっては自己弁護になってしまうかもしれないけれど)私が見た限りの彼は、周囲の人を傷つけると同時にどんどん孤独に向かっていったし、確固たる懺悔はなくともじゅうぶん現実的な懲罰は受けているように思われた。誰しもが他者に対して理想通りの言動をとれるわけではないのだし、「彼には感情がないのよ。」などと言われても困ってしまうではないかと叫び出しそうにさえなった。彼はただ、表現のすべを知らなかっただけかもしれないのに。うまく表せなかっただけかもしれないのに。裏目裏目となってしまっただけかもしれないのに。
神はいるのかどうかと若者たちが討論し彼にも意見を求める場面があるが、その時の彼の返答「私が意見を言えば老人の皮肉に聞こえる。だから言わない。」に、そしてそれに呼応した若者の「それじゃかわいそうよ。」への答え「いや、幸福だよ。」に涙がこぼれる。
彼が口ずさむ詩(若者や義理の娘もすぐに反応するところをみると有名な作品なのだろう)が、とても印象深いので書き留めておく。
この詩が象徴する彼の心情は、やはり、そのままひっそりと儚くなるのではなく、はっきりと実感できる贖罪を、愛を求めている、ということなのだろう。神の存在を信じているということなのだろう。そこに共感を覚えると同時に、結局は自分のためじゃないか、という反発も覚える。実感として。贖罪なんて、結局は自己愛に過ぎないのだから。
「わが尋ね求める友はいずこ/わが思いは日々につのる/日は流れ 日は流れて/されど彼の姿はなく/わが心のみ燃ゆる」
「我は見る 神の啓示を/花は匂い 穂は揺らぐ/わが吸う息に わが吐く息に/神の愛を思い/夏の風に神の声を聞く」
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