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[コメント] トリュフォーの思春期(1976/仏)

この映画の天気に注目せよ。
ジェリー

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







始めから終わりまで全編を覆う曇りの日々。子供の風景にふさわしい天気としてトリュフォーは納得の上で曇天のもとで撮り続けた。雨でも晴れでもない曇天としての子供の世界。そして一瞬降る雨。子供を描くときに、これほどふさわしい天候の選び方は他にない。

淡々として進む映画であるが、脚本を推敲するときも、キャスティングをするときも、子供たちを撮り続けたときも、トリュフォーの背中にはびっしりと玉の汗が浮いていたはずだ。おそろしいくらいの神経の緊張と、感覚の冴えを感じる。

無邪気な存在としての子供。庇護されるべき対象としての子供。大人が主格である世界における、目的格としての子供。映画の世界は、子供を主役にする映画を一つのジャンルに持ち、名作も多い。しかし、映画の中で、どこまでこのようなステレオタイプから自由でありえただろうか。こうした偏見を見事に取り外して子供たちをトリュフォーは描いた。子供は大人と同様に手に負えない課題を常に抱えて生きている。子供の世界は大人の世界の従属物でもミニアチュアでもない。全く独立した別の世界なのだ。だからこそ逆に。同じ人間としての共感をもって描くことができる。30年前の映画が、まるで朝穫りの野菜のように今なお新鮮なのは、その視点と共感の姿勢があるからだろう。

この映画を撮ることが楽しかったのか、つらかったのか、私は、もしトリュフォー監督が生きていたら問いたい。多分「どちらでもない、ただし、ものすごく充実した日々であった」と応えてくれそうな気がする。この映画を撮るという体験はこの映画の中の子供たちのような時間を体験することに他ならなかっただろうからだ。子供たちの時間は二元的ではない、ON-OFFあるいはプライベート・パブリックといった単純な大人の時間ルールは通用しない。子供たちの生きる時間のほうが、自分たちの感情の体験をうまくコントロールできない分かえってポリフォニックだったりするのではないか。そのことがトリュフォーにはしっかり見えている。

リアルさは視点だけではなく、演出にも及ぶ。 ラストのエピソードは、もちろん、フィクション。しかし、キスを交わしたパトリックとマルチーヌを演じたジョリー・デルソーとパスカル・ブリュションは演技の次元でキスを交わしたと同時に、演技の次元でなくノンフィクシャスにキスを交わし、ノンフィクシャスに他の子供たちからからかいのもてなしを受け取ったはずだ。演じたものと演じられたものとのあまりの近さが起こす、虚実皮膜を突き破る錯視。作品にして作品の 楽屋裏であるような映画。演技にして非演技である映画。トリュフォーの映画が、いわゆる職人の映画にならない秘密はこんなところにある、と私は思う。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (3 人) けにろん[*] ボイス母[*]

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