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[コメント] あにいもうと(1953/日)

江戸期以降、義理と人情の板ばさみ関係が人情劇の基本なのだがここまで義理の関係が後退して人情の部分のみが前面に出てくる人情劇も珍しい。しかも一級品の演技に支えられて、成瀬巳喜男の隠れた名品といえる。
ジェリー

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







太平洋戦争以降の日本映画で家族を中心に扱う映画は、ストレートにその崩壊と離散を主題としてきたように思うし、名作も多い。最も有名なのは小津安二郎の諸作品、中でも『東京物語』だろう。木下恵介には『日本の悲劇』があり、成瀬巳喜男自身にも『流れる』という傑作がある。一見するとこの映画はその全く反対を描いているように見える。いつかまた、家族は再会するものである。兄は曲がりなりにも兄だし、妹は曲がりなりにも妹である。父や母は相変わらずの父と母で死の影は微塵もない。姉と妹二人は仲良く郷里の道を並んで歩くところで、映画は終わる。家族関係がとこしえにかわらぬことへの期待を漂わせつつ、ドラマがエンディングまで進行していく。

 この映画の重要なファクターである、水。暑い夏を季節として選ばれているこの映画で、暑さの表現(浴衣のすそを捲り上げて風を足元に入れる京マチ子の演技!)と涼を呼ぶ水の描写の対比が鮮やかである。川が流れ、掘割には水が流れ、井戸の水は、もんやさんや伊乃吉が子供のころから冷たくておいしい。父親が川の護岸工事をなりわいとしている設定も効いている。悠久に流れる川に頼って生きてきた一家。その川では子供たちが遊んでいる。子供を遊ばせているのも、夏という描写を強調するためだけでなく、川の生命力というか、川が人を肥やし、川が人を増やしていくという生産力を表現したかったからだと思う。なんだか、自然界における水の存在とその描写が、家族関係の無時間性・永久性を象徴するかのような作りになっている。水はめぐりめぐっている。家族もめぐりめぐって元に戻るのだろうか。

しかしこうした、一見無時間的なドラマの進行の下にさりげなく時間の刻印を入れることを成瀬巳喜男は忘れていない。石積みからコンクリート工法へと護岸工事業を取り巻く環境はすっかり変わった。70人いた人足は数名まで激減した。母親はおでん屋を営まざるを得ない。(浦辺粂子はおでん屋の似合う女優である、とつくづく思う)この川の向こう岸には、激変する街、東京がある。 家族再開といってもそれは、お盆など年に一度二度あるかの数日である。しかも、とっくに、家族ひとりひとりは自らの力で自らを養っている。いってみれば一見感じられる無時間性の雰囲気も、離れるだけ離れてしまった後、落ち着きどころを見出した家族関係が放つ最後の光芒に他ならない。

関係といえば言える。その美しさ・貴重さ。

アン・リーの『アイス・ストーム』という映画にも同じものがあったように思う。映画はこうした関係への愛惜の表現にもまことに適した媒体だなとつくづく思う。

時間の侵食を受けぬものなどない。そのことを、ストレートに描かぬからこそ家族関係が尊く映る。現実を冷たく見つめる巨匠の投じた変化球を、なめるように堪能できた。甘いけれど最後は苦かった。

手回しのカキ氷・古い女優の描かれたうちわ・井戸で冷やすスイカ・大きなおはぎ・浴衣姿の女たち・精霊流し・天日で干す麺類・子守をする少女。ノスタルジックな意匠満載のこの映画は、今を大事にしなければならない・するしかないことを静かに主張する帰省映画の傑作である。

(評価:★5)

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