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[コメント] おしゃれ泥棒(1966/米)

ウィリアム・ワイラーが、オードリー・ヘプバーン の30代としての魅力を引き出すべく己の持てる技巧の全てを駆使した作品。肉感のない(失礼)はずのオードリー・ヘプバーンの肉感を清潔に(ここがポイント)引き出すために、掃除用具倉庫の狭い暗がりを持ち込む設定は、女優の個性に即した演出の教本だ。
ジェリー

この映画の中でオードリー・ヘプバーンが相手役のピーター・オトゥールの目の前で着替える設定が二度ある。一つは、ピーター・オトゥールヒュー・グリフィスの屋敷から贋作のゴッホの絵を盗み出そうとしてオードリー・ヘプバーンに見つかり、いろいろあった後に、二人で屋敷を出てピーター・オトゥールの泊まるホテルリッツに出かけるシーン。このときは、長靴を履いてコートを羽織るという動作がある。脱ぐのではなく着るシーンなので少しもエロチックではないように一見見えるが、この着るシーンによって、それまでのオードリー・ヘプバーンが、薄い寝間着一枚というたいへんきわどい衣装だったことを改めて意識させる設定になっている。ここでは、オードリー・ヘプバーンがそういう姿でピーター・オトゥールの前に立ったということが重要である。(なぜ、ウィリアム・ワイラーは寝室から階下の盗難現場に下りる前に、ガウン1枚をオードリー・ヘプバーン の肩の上に羽織らせなかったのだろうか?!)

もう1箇所は、博物館の掃除用具入れの部屋の中で、これこそ、オードリー・ヘプバーンピーター・オトゥールの目の前で着替える、つまり脱いで着る、という設定がある。しかし、その当のシーンはジャンプされ、既に着替え終わっているカットにつながる。見ることは出来ないが、オードリー・ヘプバーンが服を脱いで別の服を着たという事実は歴然である。高貴なるジバンシーから野卑なる掃除婦作業着へ! ピーター・オトゥールの視線ほど、観客(男性観客)にとってうらやましいものはないだろう。しかし、脱ぐ、着るの所作そのものに少しも扇情的な要素をこめていないところに、ウィリアム・ワイラーの、女優の仁(にん)を知り尽くした(というか自らオードリー・ヘプバーンという大型商品を企画開発した)自負を持った工夫がある。

目の前で脱いではこの女優の清楚さも清潔感も台無しである。しかし、脱いでいる行為を描かなくとも、男の目の前で服を脱ぐという行為の向こうに、オードリー・ヘプバーンの、着替えを見ている男への信頼感を想像させる余地が生まれる。その信頼感に根拠があるかどうか必ずしも定かではないのだが、男性観客は、このオードリー・ヘプバーンに、思いのほかの無邪気な素人っぽさを抱くはずだ。そこに30代の女性オードリー・ヘプバーンから図らずも立ち昇る性的な隙を感じ取る。男を男として意識しないのは性的発育前の女の子だけだろう。30代の女性に性的発育前の女の子の面影を見るとき、男性は、エロティックな感覚を抱くことがある。ウィリアム・ワイラーは男性の心的メカニズムを熟知しているように思われる。

男性への無根拠の信頼(あるいは依存!)というオードリー・ヘプバーンの行動の特徴が表れるのはこの作品に限らない。『ローマの休日』や『シャレード』など、オードリー・ヘプバーンには、その男の全部を知っているわけではないけれどもその男に魅かれて行くという系譜の作品がある。「しっかりしているようで、すれていないがゆえに直情な天然娘」というキャラクターは、彼女の容姿の魅力とは別の彼女の魅力の源泉である。

余談だが、相手役の男は本作品のピーター・オトゥール然り、グレゴリー・ペック然り、ケリー・グラント然り、折り紙付きのナイトである。男性特有の「依存されることのエロス」の感覚を観客に代行して享受する者として彼らは好適だ。なぜならば、男に対してむせかえるような色気を挑発的に浴びせてくる女以上に、男の前で無邪気に振舞ってしまう女に対して抱く情欲は不道徳であり、かつ、そういう不道徳な情欲は男にとっては客観的にも経験的にも歴然たる物があるからだ。下品な言い方を恐れずに言ってしまうと男は他の男の勃起なぞ見たくはない。それを見せては映画の骨格が崩れてしまう。だからこそナイトを必要とするのだ。

さて、これまで、肌を見せないことにこそウィリアム・ワイラーの乾坤一擲の勝負があることを語ってきた。ただ、オードリー・ヘプバーンは肌を見せていないわけではない。

映画の始めから終わりまで彼女の足は、ジバンシーのデザインする膝丈のスカートによって露になっている。(サブリナ・パンツなどはかないのだ)。この膝丈の原則が壊され、オードリー・ヘップバーンの膝より上が見えるシーンが3箇所ある。最初は、階下に潜むピーター・オトゥール を退治に行く前、寝室でのオードリー・ヘプバーンは先ほど言ったように薄物1枚。寝転がってヒッチコック(!)のスリラーを読んでいる。(このユーモアはとりあえず措いておく) 寝転がることによってずりあがる裾からすんなりとした足が見える。次のシーンは、階下で長靴を履くとき。寝間着のスリットから太腿が見える。ここで味わうそこはかとない観客(男性観客)の性的な動悸が3回目で爆発する。

それはまたしても例の掃除用具入れの部屋の中なのだが、オードリー・ヘップバーンピーター・オトゥールが体を密着させたまま狭い部屋の中で体の位置を動かすシーン。こともあろうに男は女の足に懐中電灯を当ててしまう。膝丈のスカートから覗かれてしまう足を賢明にスカートで隠そうとするオードリー・ヘップバーンを見るとき、観客(男性観客)は間違いなく窃視の欲望を満たそうとしている。この掃除用具小屋の児戯に近いいちゃつきが、児戯に近いからこそ永遠に続いて欲しいと観客(男性観客)が感じたときに、映画の世界は最終完成を見るのだ。それこそウィリアム・ワイラーが勝ち取りたかったものだ。オードリー・ヘップバーンを通じてエロチシズムを表現すること。彼はその困難に挑戦し、勝った。

彼女はご存知のとおりバレエ足。細くはあるが筋肉質でくるぶしから下が大きい。失礼ながらこの足ですら、ウィリアム・ワイラーは武器にする。普段隠されている部分が10センチメートル見えるか見えないかの繊細な駆け引きに観客(男性観客)は手もなくまいってしまう。このときに、私はアルフレッド・ヒッチコックの顔が オードリー・ヘプバーン の寝室にあることの別の意味を感じ取らざるを得ない。アルフレッド・ヒッチコックは決してサスペンスの神様というだけの監督ではない。エロチックに女性を撮ることに関して彼は並ぶ者のない巨匠である。とりわけ、本作品が撮られた1960年代、盗撮写真のようにヒッチコックは女性を撮らなかっただろうか。(『サイコ』『マーニー』『』)資質も才能も違うが、ウィリアム・ワイラーはこの同年代の同僚に挑戦したかったのではあるまいか。

(評価:★3)

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