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[コメント] 静かなる男(1952/米)

人情劇でありながら、一人一人の登場人物が人以上の何者かの次元に達している。ジョン・フォード監督にあっては、素手のけんかは、アルカイックなコミュニケーションであり、一種の宗教儀礼である。以下は、ごく簡単な私の「ジョン・フォード」論。
ジェリー

フォード作品においては、お酒を酌み交わすこと、握手をすること、呼びかけること、これらの日常的な演技全般が、他の監督におけるキスをすることや、歌をうたうことなど映画において特に「劇的」とされる演技と同等の重みの「“劇”性」を帯びている。

なにゆえにそうなるのか。

まず、ストーリーが根元的なくらいシンプルに作られることがあげられる。フォード映画に、凝りに凝った伏線や表のストーリーを支配する裏のストーリーなどを見ることはほとんどない。伏線を張ればはるほど、映画は説明をしなけれければならなくなる。説明をすればするほど作品世界はせせこましくなる。フォード作品においては、「さあ、素材はこれだけ。後は皆さんが手にとって好きに料理して」とでもいいたげに、ごろんとプロットが投げ出されるだけである。我々観客には、勝手に想像の翼を広げる余地が生じる。

役者の演技に目を向けよう。役者の内面などというものをいっさい排除して、登場人物一人一人を目に見える部分だけで実にうまくキャラクタライズするのがフォード作品である。フォード作品の人物を形容詞や形容動詞で表現することは意外に難しい。「彼は○○を撃った」「彼女は○○に助けられた」「彼女は主役の恋人役だ」のように行動や登場人物間の関係でしか表現できない。こうした作り方は、映画以前の古典劇に近いのかもしれない。実際、時折、フォード映画においては演技が驚くほどサイレント映画に近い古態を示すことがある。殴り合いのシーンなどはまさにそうだし、この映画では、ジョン・ウエインモーリン・オハラのお尻をけ飛ばすところなどに強く感じる。

このような特性が総合的に影響するのだろう、見る人は、斬新でありながらある種の既視感というか、昔なじんだ古い物語の世界に立ち返って遊んでいるような郷愁感を感じてくらくらするということになる。

こうした作風にジョン・ウエインが好適なのはいうまでもない。ジョン・ウエインに内面を期待する観客などいない。心象風景だの、独白だの、両義的意味だの、象徴表現だの、こうしたものを排除したところに成立するフォード映画に、彼は無用のものをいっさい持ち込まない。

その結果、人のドラマであるはずの映画が、人のドラマであることを超えて輝き始める。うまくいえないのだが、「われわれは一人ではなく、とてもおおきい構造(「宇宙」といっても良いと思う)の中で役割を与えられた成員のひとりである」ことによる至福感のような感覚をもっている。フォード監督のどの作品にも存在する基調音である。だから、たとえば同じジョン・ウエインでも、あくまで「俺は俺」的なホークス作品における実存的ジョン・ウエインと全く異なる。

まだまだ見ていないフォード作品は多いが、以上のような仮説をこれからも確かめたい。映画でありながら映画のわくそのものからはみ出たような味わいがフォード監督作品の魅力である。これは映画を知り尽くし映画そのもののような職人監督(たとえば前述のホークスやヒッチコック)とは違う。「わくからはみ出ている」からと言って、映画を破壊寸前にもっていきながら革新を起こす作家群(たとえばロッセリーニやゴダール)とも違う。

映画をもっと古いものに還元する作家、ひとことでいえばこれが私の「フォード」観である。

さて、これだけ思い入れが強いのに、なぜ3点か。実は、多少「アイルランド」臭が鼻につきすぎることが難点なのである。長い文章につきあわせてすみませんでした。

(評価:★3)

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