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[コメント] 17歳のカルテ(1999/米)

解体され、侵犯され、あるいは捏造される境界。
crossage

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







行き場のない不安や混乱に苛まれ意味もなくアスピリンを飲み自殺を図るスザンナ(ウィノナ・ライダー)に、「狂気」の名を与え精神病院へ押し込める現実。彼女に与えられた「ボーダーライン・ディスオーダー(境界性人格障害)」という病名はしかし、自らは境界の「内部」にいると詐称する現実によって名付けられたものである。自分も狂っているのなら、現実もまた狂っている、誰もが狂気(神経症)になりえ、誰もが境界にいるのだ、という大文字な事実にやがて「気づく」ことになる彼女は、行き場のない世界をその行き場のなさのままに「受容」しようとする。

たとえば精神病院に8年もいるリサ(アンジェリーナ・ジョリー)は、スザンナと同じ「気づき」を気づいていながらも、それを「受容」することを拒否し続ける。ゆえに彼女は自ら、自分のいる精神病院と現実とに境界を作り上げ、自らの狂気を「受容」してくれる精神病院という「外部」に安住し、そこから現実という「内部」を冷ややかに見つめるほかなく・・・・・・。だがしかし、本当はどこにも外部や内部はない。境界はどこにもなく、そしてどこにでもある。だからこそ現実世界には出口がなく、誰もが狂気でありうる。その過酷な現実を受け入れようとしないリサが精神病院という捏造された「外部」にとどまり続ける、人間に対して「他者」であるほかない「使徒」だとすれば、精神病院と現実という本当はありえない境界を侵犯するスザンナは、「病める」少女たちに自分と同じ「気づき」を伝導する「天使」であり・・・・・・云々。

本作品は精神病院で2年を過ごしたスザンナ・ケイセンの回想録を原作としている。時代のひとつの結節点を成した68年当時の状況を25年の歳月を経て文字化したこの物語は、90年代初頭のアメリカ出版業界をかなり賑わせたという。日本国内においても、ウィノナ・ライダーがつねにない情熱で製作を買って出たというエピソードや、アンジェリーナ・ジョリーら若手注目株が出演しているということがある程度の注目を集めたからにせよ、単館系劇場での公開というハンデキャップにもかかわらず、この上映作品はそれなりの集客を果たし、かなり長期間に渡ってロングランを飛ばしていたようだ。この現象はなかなかに興味深い。

もちろん、こうした類のテーマが現代においてある程度のアクチュアリティを獲得しているからというのもその一つの理由だとは言えるだろう。しかし一方で、アクチュアルな問題を「60年代」という時代性の枠に囲い込むことによって、この手のテーマがはらむある種の不快さだけを、都合良く私たちの前から遮断しているからこそ、私たちオーディエンスは安心して作品を蚊帳の外から見ていられるのかも知れない、という意地悪な見方も可能なはずだ。冒頭においてスザンナが放つ「わたしがおかしかったのか、それとも1960年代という時代のせいか」というセリフは、そのことをすぐれてよく象徴している。

たとえば、ひりつく乾いた冬の空気感をベースにした、病室の闇から突然開ける突き抜けるような白い空や白い雪、光と闇の目眩をともなうコントラストを多用した演出は、本来なら光も闇もないはずの灰色をした「現実」の在り方と(そもそもこうした現実に生きられない人たちをこそ主題にしているというのに)相当なズレを引き起こしてしまっていないだろうか? そこには、こうした灰色の現実から巧妙に目を逸らさせ、美しいものだけを見ようとする欲望を心地良く刺激しつつ、オーディエンスを今日的でアクチュアルなテーマに直面したつもりにさせてしまう、ややもすれば詐欺的とも言える制作者の作為がこめられているようにも思えてしまう。

何よりも、この作品全体のあらゆるものが美しすぎるのが非常に気になる。もちろん、美しいことそのものは罪悪ではないし、作品中にもテーマに見合ったというべき不快さや不潔さの意匠をまとった人物たちが登場しもする。だがたとえば、ダークサイドを代表すべきアンジェリーナ・ジョリーのまとう「狂気ゆえの美しさ」というアウラは、そのインパクトのあまりの強さゆえに、美しくもなければ醜くもない至って退屈な不快さ(現実!)を程良い距離を置いた後景へと退けてしまう。 そう、正常と狂気の境界のありえない灰色の現実をそのままに受容すべきだというポジティヴなメッセージを提示したつもりのこの映画は、代わりにその美しさによって、不快さを程良く視界の外へ遮断する別の境界を作り上げてしまっているのだ。「デオドラント文化」(呉智英)なんていうなつかしい言葉をふと思い出す。

とはいえ、スザンナとリサ、二人の女性の体現する「断念」と「受容」の劇は、たとえば少女マンガなどが長年扱ってきた普遍的なテーマでもあり、この映画に、その手の作品を好むサブカル諸兄の心を動かす魅力があるのも間違いない。なんせ、僕自身が大きく心を動かされたクチだから。

(評価:★3)

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