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[コメント] ファイト・クラブ(1999/米)

時計じかけのオレンジ』になれなかった不肖の息子たちのための《通過儀礼》。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







もうすでに手垢のついた表現手法ではあるが、拳銃は精神分析でいうところの「男根」のメタファー。そのひそみにならうなら、この映画は拳銃=男根を口にくわえるところから始まり、実際に発射(口内射精!)するところで結末を迎える。冒頭ではタイラー(ブラッド・ピット)が主人公(エドワード・ノートン)に拳銃を突きつけるかたちになっていたのが、結末では拳銃が主人公自身の手に渡っているという、その点だけが異なるが、タイラー自体が主人公の妄想が生んだシャドウである以上、同じことだ。すると発射に至るまでのパートはさしずめ、前戯ないしは一種の「ズリネタ」ということで、これはつまり壮大なオナニーショーということか。しかも自分自身のスペルマを飲み干すというパフォーマンスつきで。

「すべては欲望のままに」「破壊し、犯せ」と謳った『時計じかけのオレンジ』のアレックスは多くのフォロワーを生んだが、それは「肉体への憧れ」という自意識の誕生の瞬間でもあった。70年代の観客はアレックスに同化しようとして果たせず、その不肖の息子たちであるところの90年代の観客は、タイラーに憧れる主人公の自意識のほうに、否応なく同化させられるようになる。20年余の歳月は、肉体への単純な憧れだったものを、肉体になりきれない自意識の鬱屈へと変えてしまった。だから90年代に至ってようやく、その自意識からの脱却をめざすべく「考えるな、感じろ」というテーゼが提言されるに至った。しかし「肉体への憧れ」という意識から出発している時点で、決して意識は肉体に到達しえない。「考えるな、感じろ」というテーゼがそれ自体ひとつの「考え」にすぎないのと同じように。

鬱屈した自意識が生んだ大量のスペルマ=妄想を弾丸に込めてぶっ放すことでようやく「スッキリ」した彼は、そこで初めて現実の女であるマーラ(ヘレナ・ボナム・カーター)に「出会う」。ビルが崩壊してゆくラストシーン、二人手を取り合って、「これからはきっとよくなる」だろうと。しかしもちろんそんなのは嘘っぱちか、あるいは最悪の心象風景を具現化したディストピアでしかない。

この映画ではつねに、モノローグ調による主人公のナレーションが入る。これはつまり、作品世界がつねに主人公の意識から出発していることを意味する。これは「ぼく」の物語なんだと。それは拳銃で自らの喉を撃ち抜いた後も変わらない。たとえ肉体としての「ぼく」が死んだとしても、意識としての「ぼく」はこうして生きている、しゃべり続けている、そして世界はぼくのものだ、万歳! 現実の世界でアレックスになれなかった男はこうして、意識のなかで世界を手に入れようした。男根から吐き出されたスペルマ=妄想を、自ら飲み込むことによって。ジ・ワールド・イズ・マイン。こうしてデビッド・フィンチャーは語る、だからその種の試みはすべてオナニーにすぎないのだと。

フィンチャーのこの底意地の悪い挑発に怒りを覚えるにせよ、もしくはそれを鼻で笑うにせよ、肉体への憧れを一度でも抱いたことのある者にとっては、その行為がすべて自分自身にはねかえってくるようなカタチになっている、これはとんでもなくタチの悪い映画だ。だってこれは『時計じかけのオレンジ』になれなかった不肖の息子たちにとって、見る者の自意識を映しだす鏡のかたちをした《踏み絵》であり《通過儀礼》なのだから。俺自身はこのフィンチャーの悪意に胸クソの悪さを覚えつつも、結局《踏み絵》を踏むことはできなかった。くやしいけれど。

(評価:★4)

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