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[コメント] フォレスト・ガンプ 一期一会(1994/米)

自分の見たいリアルだけを実現するために、テクノロジーの夢が人工的な光と影のシンメトリーを作り上げたとき、アメリカの映画と歴史から凹凸が消えた。凹凸のないのっぺりとした空間においては、真の陰影は生まれない。
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変革への夢に敗れた挫折感とベトナム戦争へのシニシズムが生んだアメリカンニューシネマは、膨張する一途にあったアメリカニズムへのカウンターとしての役割を担うものであった。と同時に、映画史的に見るなら、セット撮影を原則としたハリウッド撮影所システムが凋落し始める時代から、50年代ノワールを経て、自然光を多用した屋外撮影という撮影手法を携えて登場したものだ。

撮影所システムが担ったハリウッド黄金時代(30年代)の絢爛豪華な「光」、撮影所システムが崩壊しはじめる50年代ノワールの「闇」、そして70年代ニューシネマの自然光が作り出した「リアルな」陰影。撮影所システム時代における光と影の対立が、あくまで映画が夢=虚構であるという共通の地盤のうえに成り立っていたものであるとするなら、ニューシネマが持ち込んだ自然光とそれが作り出す陰影のシンメトリーは、映画の虚構性に「現実」を投げ込もうとするものだったともいえる。それはまた、夢を運ぶ装置としての機能が楽天的に信じられていたハリウッド黄金時代への強烈なアンチ、夢の終わりを宣言するものとしての役割をも担っていた。

資本主義の狂熱に浮かれ、オプティミズムとスノビズムに骨までどっぷり浸かりながらやけっぱちに走りつづけた80年代を経て、89年の冷戦終結後、緊張と葛藤が表面的には失われた世界において、次第に人々の歴史感覚が消え始める。光と影の抗争史としてのアメリカ映画史が忘却されてゆく過程と、バーチャル・リアリティを演出するCG技術が飛躍的な発展を遂げてゆく過程とがパラレルに並行し、テクノロジーの夢は、ついに虚構の歴史を「現実」として物語るに至る。それが90年代保守回帰の潮流のもと再び息を吹き返したアメリカニズムと結びついたのが、この映画なのだ。

CGの作る光は、セットの照明がもたらす虚構の光でもなければ、もちろん現実の自然光でもない。虚構の光に照らされたものであれ、自然光の照射を受けたものであれ、陰影を生み出すためには起伏と凹凸が必要だ。CGテクノロジーは、世界の凹凸と歴史の起伏をいったん消去し、空間をのっぺりと平板化したうえで、光と影のシンメトリーを作るための凹凸そのものを仮構する。ここにおいて映画は、虚構としての夢(撮影所システム時代のハリウッド映画)でもなく、虚構を打ち破る現実(ニューシネマ)でもなく、現実の顔をした夢物語となった。自分の見たい現実(リアル)だけを生み出してくれるテクノロジーへの全能感と、シニシズムに疲れた人々を救済する歴史=物語を携えて、こうしてアメリカは宣言する、これが今やグローバル・スタンダードな「リアル」のあり方なのだと。

テクノロジーは物語を作る力となりえたが、同時に、そうした物語を必要とする病んだ現実を隠蔽し、凹凸を消去してしまう功罪をも併せ持っているということ、そしてこの「感動的な物語」が、そうした功罪のうえに成り立っているものであるということを、私は忘れたくない。

(評価:★2)

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