[コメント] ライムライト(1952/米)
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最近久しぶりにこの『ライムライト』を観て、チャップリンが本作の前に作った『街の灯』と類似する点、そうでない点を発見し、複雑な気分になった。
『街の灯』では、浮浪者が助けた花売り娘はやがて成功する。一方で浮浪者自身は落ちぶれ、さらにみじめな状況になる。
ラストになって、自分を助けてくれたのはこんな人だったのだ、ということを知った娘が、その後どうしたかは描かれていない。恩返しに浮浪者を助けて雇い入れるくらいはしているかも知れないし、逆に「汚らしい」と追い出しているかも知れないのである。それは観る側の想像に任せて、話の作り手たるチャップリン自身は語らない。それが彼なりの美学だったのだろう。そして、その美学は見事に成功していた。
一方、この『ライムライト』では、カルヴェロに救われたテリーは、後になって芸人に恩返しをする。つまりチャップリンは、救い救われた二人の“その後”を描くことで、『街の灯』での美学を曲げたわけである。それがいい方向に働けば良かったのだが、残念ながら自分には、必ずしもそうとも言い切れない部分があるように見受けられた。
恩返しでカルヴェロの復帰公演を打ったテリーは、その公演によってカルヴェロを永遠に失ってしまうことになる。「親切が仇になった」と言ってしまうのは簡単だし、「芸人なのだから舞台の上で死ねたら本望だろう」とも言えるだろう。しかし、いやしくも人ひとりが、人生という名の舞台から退場する際の演出としては、あまりに華がなくはないだろうか。
『街の灯』で、ラストシーンの浮浪者は、身なりはいくらみじめでも、「自分はこの娘を一人前にした」という喜びと自負であふれていた。それ以上のことは語られないまま『街の灯』という映画は終わる。だから、彼は見かけは浮浪者でも、観客にはいつまでも(映画が終わった後でさえも)堂々たる紳士として記憶され続けるのだ。
本作でのカルヴェロはそうではない。彼は最後まで哀れな芸人として去っていく。『街の灯』の浮浪者と重なるところはない。この点を思うにつけ、これこそ蛇足だ、チャップリンは『街の灯』に屋上屋を架した、と考えてしまうのだ。
さて、あれこれ書いても結局★4なのは、やはりチャップリンは人生の悲哀を描いて一級であるからである。個人的に一番好きなチャップリン作品である『街の灯』とつい比べてしまったから辛口の評になってしまったが、単体で考えればやはり★4を付けるに値する作品であると思う。つまりは『街の灯』を愛するがゆえの暴論ということで、どうかお許し願いたい(そういえばこの文中で何回『街の灯』と連呼しただろうか…)。
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