[コメント] ひゃくはち(2008/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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思えば大人(世間)っていうのは、人を規定したがるものだ。君は何をしている人だ、何が好きなんだ、何を目的に生きているんだ、とか。で、自分も大人になるにつれ、「もっと主体的に生きなきゃなあ」とか考えるようになった時に「自分は何が好きなんだろう、何を目的に生きるべきなのだろうか」というふうな考え方をしてしまう。しかし、それは「主体的」ってことなんだろうか? それはただ他人から見てわかりやすい自分の輪郭を整えるだけのことなんではないだろうか?
自分の輪郭を持とうとする、そのこと自体は良いのだが、そうすると往々にして、他意もなく人の輪郭を規定したくなる。ああ、あいついいやつだ、ああ、あいつは負け組だ、とか。人の輪郭でその人をわかろうとする。でも、人生は勝ち負けはおろか、良し悪しでもなく、好き嫌いでもないはずだ。私に輪郭などいらない。あってもいいけど、なくてもかまわない。少なくとも「輪郭」を気にしている暇があったら、もっと雅人のように周りとの接点を保とうなどとせずがむしゃらに生きるべきじゃないだろうか。それこそ「主体的」なんではなかろうか? この作品は、何でも輪郭で判断する世間との訣別宣言のように、私には伝わってきた。
毎日苦しい練習をして、まず試合に出ることはできないのに、君はどうして野球をやっているの? 煙草は吸うし、夜遊びもしている。ただ野球が好きなだけでやってるの? 君は野球が好きなの? …女新聞記者に「どうして野球をやっているのか?」と聞かれた雅人は、きっと質問の内容を「自分の輪郭」という意味として聞いたと思う。煙草も、女の子も、練習も、練習をさぼることもみんなやりたい、仲間と達成感を分かちあいたいし、仲間を蹴落としもしたい、そんな108ものことが渾然一体となった中を生きている者の「好き」と、せいぜいが「名門高校の補欠球児」という輪郭から推定される「好き」の差。この人に「自分は野球が好きだから野球をやっています」と言っても、自分が言う「好き」の意味ではなく、女記者の理解のおよぶ範囲内での「好き」でとしか伝わらないだろう、そんなことを感覚的にわかるから、なんと答えてやればいいかわからない。背番号の発表がある日に、水のみ場で吐いているところを、文化部のやつに見られ「それだけのことで?」と不思議がられる。
名門高校の野球部の当落線上の選手。よそじゃエリートだ。でもだからこそ超えられない壁があることも知っている。じゃあ「補欠の役割をきっちり果たそうぜ」って割り切っているわけでもない。「不謹慎な」チャンスを虎視眈々と狙っている。雅人は、自分のことはおそらく「どうせ人にはわからないだろう」と思っていたと思う。それでいいんだとも。だから大人(世間)にはいつも外向的な微笑みで対応する。
ところが、親友と背番号をかけた時、始めてお互いが憎むほどに勝負した。キャプテンと副キャプテン相手とじゃ、ポジション争いをする気もしなかった2人が。一人が勝って一人が負けた時、勝ったほうは負けたほうの悲しみを、負けたほうは勝ったほうの喜びを気遣った。もう俺の野球生活はこれで終わりだというノブの悲しみは、雅人だけでなく、かんぶべやで寝たふりをしている星野も佐々木もそれを完全に自分の思いとして共有している。それなのに、ノブの泣いているところを見て雨の中逃げ出してきた雅人に、女記者は「見なかったふりをせず」傘を差し出す。「私はあなたたちのやっていることをよくわからない。けど受け止めてあげる」という無償の優しさで差し出された傘には、それが「他意がなければこそ」そのわかっていないところからくる優しさは間違いだ、全然あってないんです、という苛立ちが募ったのだろう。この作品で唯一大人(世間)に向かって「ぼくたちのことをわかってほしいんです」といわずにはおれなかったこの場面は切ない。
友情も、自分が心から野球を楽しむことも、もうギリギリのところまで追い詰められ押し潰されそうになるところ、一年生部員の怪我というアクシデントがそれをあっさりと解決してしまう。世間に「わかって欲しい」と愚痴を垂れた雅人はこれで吹っ切れてしまうのだ。これもまた野球、これこそ野球。リアルに「それ」を生きている者同士、そんなことは怪我した一年坊主だって知っているのだから。
ラスト、伝令の時にこけた雅人をスタンドの客の哄笑が包む。その笑いと、マウンドで集まっている「練習は裏切らねえな」というチームメイトの笑い。あれの意味することをわかっていることとわかっていないことの差。この両者の笑いの決定的な断絶を見るべきだ。「われわれ」はほとんどの世の中のことなど知ってはおらず、知っているのはせいぜい輪郭だけであって、かえってわかったつもりになっている分本当の中身は知らないのだろう。であれば、勝利宣言で幕を閉じるラストシーンの勝利とは、「われわれ」には共有できない雅人や彼らだけの勝利であるはずだ。
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