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[コメント] デトロイト・メタル・シティ(2008/日)

原作未読なので、このフィクション世界の立ち位置というのがどうもよくわからず。松山ケンイチの芝居の勢いでなんだが誤魔化されちゃうが。
おーい粗茶

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







面白かったんだけど、どうも釈然としないっていうのがあって、ちょっと理由を考えてみた。

その1。DMCというバンドのコンセプトっていうのが、ヨハネ・クラウザーII世とか、アレクサンダー・ジャギとかという名前からして、もともと「ガチ」ではなく、「デスメタルやってます」的な「狙い」があるように思っていたんだけど、どうもそうじゃないってことで観ていかないといけないのかな。

きちんと音楽そのものでファンを納得させたうえで、なおかつメタルのかっこうで面白いことをいったり、ファンシーなセンスを披露したり、ずばりクラウザーさんには「根岸君」っていう別キャラがあるっていうようなことが現実の世界ではすでにありだから、この作品が、根岸君に対し根岸的なキャラを「封じなくてはならない」とするっていうのがすごくフィクショナルな感じがする。「根岸的なパーソナリティは隠しとおさなければならない」という嘘は、原作では本作を楽しむためのお約束なのだろう。このへん原作はなんとなくスルーしちゃってるんだろうけど、どうも映画になると多少の現実味が付加されるせいか違和感を覚えるのだ。

その2。根岸くんの気持ちがよくわからない。おしゃれをしたい、おしゃれな音楽で夢を与えたい、と彼は言う。で、現実の彼は、いやなかっこをしなけりゃならない、でもいやな音楽で夢を与えている。したいことのうち一つは達成している。自分はただ好きな歌を歌いたいだけじゃなく、それを聴かせて人を楽しませたいんだ、夢を与えたいんだ、と本当に思っているなら、メタルなら人を楽しませられているのに、おしゃれポップスはずばり嫌がられているという現実に直面している以上、自分のポップスはどこが悪いのかというような問題意識に向かうか、あるいは自ら望んでメタルをやるんじゃないのかなあ。「僕がやりたいのはこんなことじゃない!」っていうところで逡巡しているけど、同時に、夢を与えている自分を評価しないわけにもいかないはずで、悩みどころが違うんじゃないだろうかと思うのだ。「どんな形であっても夢を与えられるというのはすごいことだ」っていう母親の言を待つまでもないはず。なんかこのキャラクターの描き方はおかしい。

これ、「夢を与える」というのが、映画だけの設定というので納得。相川さんの言う「音楽っていうのは夢を与えるパワーがあるんだよ、なのにあなたのやっている音楽はただの強がりだ」とかっていう評価が、根岸君とクラウザーのアンビバレンツに対し投げかけられ、そこを軸に音楽論的な物語として展開していくのかと思わせて、まったく掘り下げられないで終わってしまうのも、この夢うんぬんっていうのが映画のあとづけで未消化だからなのだろう。

あともう一つひっかかるのが、ギャップの面白さっていうことで、それは当然見た目のそれに向かうのだけど、何かツッこみをするのを忘れていることがあるような気がするのは、「根岸君のデスメタル音楽のセンスが抜群」ということだ。これはおかしいことだから、しっかりツッこんでおく必要があるのに忘れられてしまっていると思う。自分が価値を見出していない自分の才能に翻弄されるっていうところに、本作の笑いの鉱脈がまだ眠っている気がするのだ。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)りかちゅ[*] 水那岐[*] Myurakz[*]

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