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[コメント] お茶漬の味(1952/日)

まるで異国の物語。
おーい粗茶

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







見合い結婚で、そもそも価値観の違いをお互い知った上でありながら、「夫婦」であるという関係を、成立させていかなければならない、という前提での男女の関係が、もう私なんかは久しぶりで驚いた。お互いの価値観の違いをリスペクトする夫婦、というテーマだっつったって、これを平成生まれの若い人が見ても、相当私の世代とは違う捉え方をするように思う。

地方出身の一流企業部長と、上流階級のお嬢様育ちのマダム、という記号は、なまじ現代でも通用するがゆえに、この夫婦の着地点を一体どうみるか。なぜ自由奔放に生きているくせに、「僕と君のような「気の合わない」夫婦」と夫に指摘されて怒るのか。若い姪に「お見合い結婚」を否定されて怒るのか。私は、木暮実千代が、本当は夫のことを頼もしく誇りに思っていて、だからこそ野暮ったいというその一点が際立って気に障るという以前に、「夫婦生活を成り立たせ」られないというのは大人として失格である、という骨にしみついた価値観を背景に感じてしまう。夫の佐分利信にしたって同じだと思う。夫婦関係を壊さないための「もう、いいじゃないか」、夫婦関係を修復するための技術としての「お茶漬けの味」なのだと思う。本当に「遠慮や体裁のない、もっと楽な気安さ」の良さに気づいたというよりも、関係修復への上手い口実(自分も納得させられる)を見つけ、それに乗じて心情を吐露できたことが救いにつながったのだと思うのだ。

インティメートでプリミティブという価値観そのものを受け入れることができたというなら、どなたかも書いているように、それはねこまんまでなくてはおかしい。間をとっての「お茶漬けの味」、許せる範囲での糠みそ臭さ、なのではないかと思う。夫婦関係を成立させなければ大人として失格、という前提が跡形もなく無くなった現代の「お互い(の価値観の違い)を認める」という意味合いというのとは、質問の意味も解答も違ってくるのだと思う。お互い主張をぶつけあって人間関係を壊すことを辞さない現代の日本とは違う大人の差配。『煙突の見える場所』のように、「お化け煙突」を見て「あれ〜?おっかしいな?」と素っ頓狂な自分を演出したりしながら、人間関係を潤滑にしていこうとする心情の正体を見たような気がするのだ。

この映画の感想は、気づかないうちにこんなに日本人の心情は変わってしまったなあ、と驚いた、ということだったのだ。それを感じたのは、パチンコ屋のくだりで笠智衆が「おもてなし」として、パチンコをしている佐分利信と鶴田浩二をパチンコを中断させ、家に招き入れるシーンもそうだった。その部屋の粗末な佇まいと、安そうな酒。これが、お互いに「おもてなし」として受け入れている感性は、今の日本にはないのではないか。豊かな物やテレビやインターネットのような間断なく浴びせかけられる情報(にしては電報一本で帰ってきてしまうフットワークの軽さ!)に囲まれた我々に、「フィリピンは良かったですな」なんて話に聞き入るなんてことができるのか、むしろ1周まわってアリなのか、ほんとに何十年か前の日本人たちがまるで異国の人々を見るかのようだ。

店名の「カロリー軒」は二郎ブームの現代で通じそう。「甘辛人生教室」はもう半周は待ちかな。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)ぽんしゅう[*] けにろん[*]

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