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[コメント] どですかでん(1970/日)

「強さ=美しさ」を信じてきた監督が、180度変節して描いてみた「弱者の一分」。
おーい粗茶

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







最初観ていた時は、気持ち悪かった。なんだか社会から脱落した健常者が、病人をみてほっとしているようなそんな視点を感じたからだ。

この街の住人の中には善人もいればクズもいる。どっちかというと清貧というより、どっぷりとゴミに漬かっている怠け者どもという印象が強い。かれらに共通しているのは、みな「弱い人間」というところだろう。その人の、志とか、性根とかに関わらず、今この現状を打開することができない、という点で等しく弱い。

黒澤監督は、強い人が好きなのだと思う。それは権力者というのではなく、強い心を持った人ということだ。多くの監督作品の主人公から感じるものは、人間のそういった強さで、そういう強さこそがこの世の中でもっとも美しいものだ、という主張のように感じる。時に、己の心の弱さから破滅していくような人物をとりあげることもあるが、これはそれの裏返しにすぎない。

この作品は、そういった系統の作品とは完全に異質だ。かつこが自分に親身になってくれる酒屋の店員に、最後の最後でようやく感謝というか謝罪のことばを口にする。従来の監督なら「ごめんなさい岡部さん…」という台詞を、かつこがどんなにかぼそい声で吐いたとしても、私はその勇気を讃えたい、というふうに見せたと思う。そこに「弱い」人間の矜持を描いてみせたと思うのだ。しかしこの作品では、かつこがその台詞を口にした時には、酒屋は自転車ではるか先をいってしまい「かっちゃん相変わらずだな」とまるで意にも介さないふうである。かつこは施しを一方的に受けるだけで、最後までなんら期待されない人間として描かれる。簡単にいえばこのシーン、すごく惨めである。乞食の父親もそうだ。観ていてお前らそこまで「だめ」なのか、と口惜しくなる。

「弱者の一分」というものを従来の黒澤監督が描くとしたら、それは伴淳と三波伸介が見せる一片の誇りということになるのだろう。本作において、監督はそれを意図的に制限したのだと思う。それは強者の目からみた、こうあって欲しいという「弱者の一分」だからだと思う。監督はもっと弱者というものを理想論を排除して描こうとしたのがこの作品だったように思う。かつこを結局は突き放して描く先述のシーンに、監督の強い意志を感じるのだ。

ところが、その一方で、これとまったく違う目線も感じる。それが最初に感じた「病人」を見るような視点だ。

「弱くったっていいんじゃないのか」というメッセージだが、これは観客に向けられたものというより、監督自身への自問のように思える。私には、監督がその主張を最終的には受け付けていないように思うのだ。監督はやはり弱者は嫌いなんだと思う。その後の監督の作品とかを見ると、この作品を撮る時だけ「弱くてもいいんじゃないのか」というテーマで撮ってみたという気がする。

邪推すれば、「トラトラトラ」とかで制作者に騙されたり、スタッフに仕事の品質的な面で裏切られたりとかっていうことで、さんざん傷心していた頃に、ふと目にした病人の姿の、その弱さがかもし出す一種の優しさに癒されてしまったのではないだろうか? しかしそれは病人=弱っている人が、凶暴な力をむき出さないというだけのことで、本当の優しさとは別のものだ。監督は優しさが強い心からこそ生まれることもよくわかっていると思う。それでもこの作品の時だけは、それでもそこに救いを求めてしまったように思うのだ。

プライベートな心境を託すということと、映画作品を作る上での客観性の保持。監督はあくまで後者にこだわったのだと思う。感情を理屈に無理やり置き換えたような感じがするのが私のこの作品に対する印象だ。邪推ついでにいえば、表現主義的なセットや色彩設計は、実はそのことを意識しなくてすむためには打ってつけの方法だったかも知れない。そこに凝っていくことがテーマに関する自己矛盾からの逃避だったのかも知れない。

(評価:★4)

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