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[コメント] 東京日和(1997/日)

この美しさは、美しさの方向が違うでしょう。
ちわわ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この映画もみてからすでに一年がたった。 不十分な記憶をたよりに、感想をのべます。

見終わったあと、たしかに「美しい」とおもった。 ま、全体が陽子の美を巡ってつくられているわけだし、 映像もことさら一つ一つのシーンがある種の写真のように、印象深く しているのだから。

でも、これは映画的な美なのだろうか?いや、映画的表現 をもった作品と言えるのだろうか? こういう疑問を呈しざるをえなかった。

写真の本質を半過去におく、R.バルトの意見に同意 しないけれども、この映画は過去形なのです。 全ての映像が過去の美しい思い出、といったかんじです。

でもそれがそのまま映像にされると、はっきりいって見るのがつらい 夫婦のじゃれあっている姿が延々とながされているかんじなのです。「ストーリーがない」ふつうこれは映画の批判にならないけど、 この映画に関しては、共感しますね。ようするに、このつたないストーリーをこういうやたら綺麗な映像で表現する理由が、みえないのです。 死んだ妻の思い出をことさらに美化、理想化(第3者が)するのが 真の愛を描いている、というのだろうか?

美化、理想化をするには、それなりの意図と理由がひつようなのだけど、この映画にはそれがないようにおもう。ただ愛するひとの思い出を写真的(かなり一面的な)に綺麗にしようというだけにおもう。

だから、この映画をみているときは、全然共感しないし、いまでも共感してないのに、不思議とこの作品のシーンは、前後の文脈なしに、妙に覚えている。あ、あのシーンは綺麗だった、と。これはどうも、作為的な綺麗な写真をみたのと同印象なのです。

たぶんこの映画、全部みても、半分だけみてもおなじ印象だとおもうな。

この感覚が、アラーキーの写真の感覚と繋がっているかどうか、これはわからないけど。でもアラーキーのうさんくささと、この映画のうさんくささは、同レベルではないでしょうね、きっと。

映画の表現としても、それに写真の表現としてもどこか疑問がのこる映画でした。写真のありかたを考えても、こういう解釈(これが解釈として)には疑問はのこります。 もしかしたら、わりとミーハーな映画なのかもね、この映画。大貫妙子さんの音楽とか、多彩な登場人物とかは楽しめましたし、中山美穂も綺麗だとおもうし、それなりに楽しかったのですけどね。

(評価:★2)

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