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[コメント] ハリー・ポッターと賢者の石(2001/英=米)

ウィリアム王子はどんな気持ちでこの映画を観た(観る)のか興味津々。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







らいてふ氏の圧倒的なreviewをはじめとする132人のコメンテータによる詳しい解説やツッコミにいちいち頷いた後で、何も書くこともなさそうなものだが、私なりに、いささか換骨奪胎的になるが、この映画とそれにまつわる現象における雑感を書いてみたい。

■"thank you"にたどりつくまで―

別に映画に対して過分な教育的配慮を要求するつもりはないが、ハリーがなかなか"thank you"を言わないのはどうしたものかとイライラした。

らいてふ氏の指摘箇所は、まあ、学期が終わればまた戻るのだからいいとして、暗黒の森(だっけ?)でケンタウルス(?)に助けられた時も、森の番人ハグリッドの世話になった時も、はたまた病院で目覚めた時も、ハリーはただ黙って見つめるのみ。まるで、好意を受けるのが当然のように。「釜爺出てこい!叱りつけてやってくれ!」と念じること度々。

「まあ、現実にしたって、は津美氏ご指摘のような状態なのだから…」、と諦めかけた瞬間、ラスト、ハグリッドに両親のアルバムを貰ったときの"thank you"。

ふう〜良かった…それで言わなかったら、ホグワーツまで乗り込んで、一発ハタいてやろうかと思ってたぞ。

そういう意味での「成長」はあったかもしれないが、正直、自分の「トムとハックの子どもたち、あるいは通過儀礼物語、そしてビルドゥングスロマン」POVに入れるか入れまいか迷ったが、はしぼそがらす氏ご指摘のとおり、ロン君とハーマイオニーちゃんの成長が著しく見られたので、逆転ボーナスポイント。ってか、別にPOVに入ったところで誰も喜ばんだろうが…

■ハリーは王子様か?

ハリーを見ていて思うのは、かなり頓珍漢な見方かもしれないが、『フォレスト・ガンプ/一期一会』のガンプを思い出した。ひょっとして、アメリカ的ガンプという偶像に対してのイギリスの回答だったりして、とか。なワケないか。

それは、まあ恐らく、『フォレスト〜』におけるドラゴン・スクリュー氏のコメントや、特にmirror氏の「(略)...卓球にしてもアメフトにしても、死ぬほど努力している人間が背後に居るはずなのに、それを簡単に追い越す事に無理がある。フィクションなのはわかるけど、努力が報われる映画こそ人々に希望を与えるんじゃないの?この映画は、何かを成し遂げようと努力している人間を否定している。じゃあ、何?ダメなヤツは何をやってもダメなの?すべては運命(遺伝子?)によって、生まれたときに決定してるの?これこそ差別的じゃねーの?選民思想だよ。」というコメントに影響されたものだが。

冒頭コメントのウィリアム王子云々は、彼はきっと努力家でもあるだろうけど、あの母親譲りのマスクとスタイル、聞くところによると秀才でスポーツ万能、しかもプリンスという、誰が聞いても羨む血統と素質、それが故の苦悩もあるだろうと思いを馳せると、彼は、このハリーをどう思うだろうかと、個人的に興味が湧いた。

映画は、そういうのに全然興味なしなのね、ウニュ。

■<シミュラークル>としての映画

全体的に何かを<観た>気はするが、何かを<感じた>気はしない。

それぞれのエピソードもそれなりに面白かったし楽しめたが、主人公に同化して「ハリー、頑張れ!」とも思わなかったし(emau氏やはしぼそがらす氏の言うように、むしろ、ロン君やハーマイオニーちゃんに声援)、劇中の魔法使いの世界にしても、あまり歴史の重厚さのようなものを感じなかった。

なぜか―

まず、この作品は「物語」ではない。ハイタカ氏の言うように「ダイジェスト」であり、エピソードの羅列である。

それはつまり、それぞれのエピソードの核・中心となる物語性が欠落しているゆえに、それぞれのエピソードにおいて働く求心力のようなものがない(それはボイス母氏の指摘する「魂」と言ってもよい)。

さらに言えば、鑑賞中の興味は、それぞれのエピソードがどう<オチる>のかということに向けられ、物語全体としての伝えたい<something to tell>は大して重要ではない。よって、散漫で平面的な印象を持つ。

木魚のおと氏の指摘にあるように、一応おとぎ話やファンタジーの意匠を採用し、形式は神話的世界の再構築であるが、その基底となる、たとえばリオタールの言う「大いなる物語」や精神性はほとんど形骸化されている。

たとえば、つつつ氏もreviewで参照した『千と千尋の神隠し』は、いささか説教臭く教育的・道徳的に多弁であれ、精神性の核と求心力あってこそ、カオナシや湯婆婆などの印象的で象徴的な様々なキャラクターと、千尋の冒険と成長の物語(initiation story)と関連するエピソードが、バラバラにならずにひとつの物語として成立している。

この映画『ハリー・ポッターと賢者の石』はその対極にある。言うなれば、原作というオリジナルのコピーでも、はたまた一本の映画としてのオリジナルでもない。WaitDestiny氏が示唆するように、原作をデータベースとして、そのひとつひとつの出来事を視覚化・再現することを目的に作られた、中間的な存在、いわゆる「シミュラークル」である(*ただし、一般的に言われるシミュラークルというよりも、半ば物語回帰的な、比較的新しい形態かもしれない)。

それが良いか悪いかは別問題であるし、ロールプレイングゲーム(RPG)的ものが期待される現代のエンターテイメントは、前述の「大きな物語」の幻想、そのいかがわしさ、胡散臭さの察知、認定と否定から成り立っており、畏怖の念を抱かざるおえない曖昧模糊とした抽象的な世界観からの脱出、結局は全部虚構であり、「真実」は、DNA的・原子的情報データから成り立つのだという、徹底した個人主義に基づく諦観が主流なのが「今」なのだろう。

「ポッタリアン」の出現も、そういうオタク的なデータ嗜好に依拠しているといっていい。子ども時代なら恐らく誰もが憧れる超常的な「魔法使い」の世界、魔術や魔力、『ゲゲゲの鬼太郎』じゃないが現実と背中合わせに異次元があるというファンタジー、「ニンバス2000」と名付けられた"wow"なホウキや杖や白梟、そして、ハリー君が「みにくいアヒルの子」的な薄幸の<泣ケル>お膳立て、ロン君やハーマイオニーちゃんなどの「萌えキャラ」などなど、萌エ要素・アイテムの集大成と構築が、この映画ではないだろうか。繰り返すが、それが良いとか悪いとか言ってるのではない。*でも、さすがに売店であの制服が三万円で売られているのにはビツクリ。

原作は未読なので、映画についてしか言えないが、原作者ローリングが、本に吹き込んだ(と思われる)基底となる物語性や世界観、魂を、映画化されることによって徒に破壊され恥辱を受けることを回避したくて、それならいっそ、原作をデータとして、たとえばゲーム化や解説・攻略本化のようなシミュラークル的増殖のひとつとして「映画」になってほしいと願った上での、クリス・コロンバスというチョイスなら、正解であり、事実、成功している。そういう意味で、ボイス母氏の指摘どおり「ファーストフード」的であり、「遊園地アトラクション」的であり、RPG仕立てであって、容易に消費できる「情報」としての映画である。

同じファンタジーでも、同系列として、多くのコメンテーター各氏も参照した『スター・ウォーズ』や、最近ならば『X−メン』を挙げたい。

■語り継がれないであろう<映画>

よって、この映画は確かに子どもも大人も十分楽しめる映画ではあるが、私の好き嫌いは別にして、『E.T.』や宮崎アニメなどのように、良くも悪くも、大人になってからも心に残り、語り継がれる映画とはならないと予測する。

それにしても、シークエンスが公開待ちであるそうだが、まるでアメリカのTVドラマのように完結しない「おとぎ話」というのも、いかがなものだろうか。

ローリングの『ハリー・ポッター』誕生エピソードなどを耳にすると、ふと、マーガレット・ドラブルあたりを思い出したりもするが、原作も未読だし、そもそも映画批評サイトでする話題ではないだろうから割愛する。

■「シミュラークルかなんか知らんが…」

ごちゃごちゃゴタクを並べましたが、観ている最中は、原作未読でも十分楽しみましたよん。

[with ji/ワーナー・マイカル・シネマズ茨木/1.25.02]

(評価:★3)

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