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[コメント] 沈黙(1963/スウェーデン)

この世界には明光と惣暗しか存在しない。人はその狭間を往来する罔両でしかない。光の崖から一歩踏み外せば、そこは底なしの闇。
muffler&silencer[消音装置]

「罔両」とは、『荘子』の「斉物論篇」に出てくることばで、影の外側にできる半影のこと。この出典の話は、「半影は影に従い、影は形に従い、形は時の変化、運命のままに従う。このように万物は相互依存し、この世に絶対的なものは存在せず、最後に残るのは時の変化だけだ」という解釈が一般的。

ベルイマンはよく時計をモチーフに使うが、オープニングのいつになく正確なリズムで、ストップウォッチのような速い音は、この無情で非情で残酷な「時の流れ」を感じさせる。その時の流れは「神」でさえも手を触れることができない。

姉エステルは、光に対し嫌悪感を抱き(たとえば、アンナの肉体、精液の臭い、生きること自体)、闇に対しても恐怖感を持っている(たとえば、父親の死、そして自分の死)。たとえば、闇は闇のまま、外国語は外国語のままならば、それは<沈黙>である。その闇にいかなる物が隠されていようとも、そのことばにいかなる意味が含まれていても、光を当てなければ見えないし、翻訳しなければ理解できない。彼女は光と闇の両方から、理性や精神という「翻訳」によって逃れようとするが、翻訳は強い光には溶け、深い闇には呑みこまれてしまう。

一方、アンナは、光に対しても闇に対してもあるがまま受け止め、闇を照らす光へと吸い寄せられた「蛾」のような存在だ(だから、ことばが通じない恐怖感にもとらわれることがない)。あまりに眩しく強い光に照らされた蛾は、それゆえに、本人は意識せずとも、真黒に焦げついた影を残す(それが、エステルだと言っていいだろう)。そして、光から受けた痛みと闇への嫌悪を、降り射す雨で洗い流す。

この架空の都市「ティモカ」の名前は、エストニア語の「絞刑吏」という語から借用したそうだが、まさに、この作品『沈黙』を観ていると、じわりじわりと首を締められる感覚がある。異国に長く滞在していると、時折強烈に襲ってくる疎外感や孤独感、その窒息感が伝わってくる。この映画こそ詩だ。

僭越ながら粗筋も書かせてもらったが、この作品こそ、「忠告:」のフレーズを使いたかった。下世話な話で申し訳ないが、独身で恋人もいない僕には、あのエステルの「虚しい」の吐露が、夜になるたび思い出されて、胸が苦しくなる。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (4 人)にくじゃが[*] ハム くたー ina

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