[コメント] 二人で歩いた幾春秋(1962/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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名古屋の葬儀社・ティアの社長が言っていた。「日本の学校教育は、いい点数を取って、いい大学に入って、いい会社に入って、ということしか教えない。その会社で何をするのか、その仕事の先に何があるのか、その提供された財やサービスで、どんな人が恩恵をこうむるのか、その人たちにどう感謝されるのか、そうした本当に大切なことを教えない」と。
まさにその通りで、私の受けてきた学校教育も、概ねそんな感じだった。
この映画の描くところもまさにそれ。一生懸命勉強して京都大学に入り、紆余曲折はあったものの最後には大学を卒業する。京大で何を学んだのか、社会に出てそれをどう活かし、どういう道に進むのか、といったことは、まったく描かれない。と言うより、作る側が、それらを描く必要をまったく感じていない、という感じ。
だがこれが、社会の共有した、特にこの時代までに顕著な、一つの夢であったことも、また確かだろう。だからこそ、それ以上を描く必要がない。それで良かったのだ。それでみんな、真面目に働いたのだ。どんな仕事であろうがなかろうが、黙々と、コツコツと働いて、それで家族を養い、社会に奉仕し、お国に税を納めてきたのだ。なんで、それじゃ駄目な社会になってしまったのか?
思うに、道路工夫とは重要な仕事だ。僕が週末、ジョギングをする公園の土の道は、雨の翌朝は水溜まりだらけになる。ときに、土が被さっていることがある。これまでは、ああ、誰か公園の係の方が、やってくれたのだなあと、思う程度だった。でもこの映画を観たからには、会ったことないから顔までは思い浮かべられないが、今後は具体的な人格に思いをやり、感謝の気持ちを抱けるようになるだろう。なりたいし。
主人公は、自分の仕事が世間から無視され、馬鹿にされ、虐げられる心情を吐露するが、自分でも自分の仕事を蔑んでいる。僕らの社会は、こういう仕事に対し、感謝をし、尊敬をするということを、しない社会であってきたのかもしれない。
これからは、少しでも、そういう感謝の念を伝えられる世の中になってほしい。
そんなことに気づかされ、そんなことを思わされる作品だった。
80/100(13/04/16記)
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