[コメント] 県警対組織暴力(1975/日)
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“仁義なき”シリーズでは親分然とした抑制の効いた凄みを湛えていた菅原文太が、立場一転、破天荒な一刑事として登場。冒頭からブチ切れまくり飛ばしまくりで、荒々しいエネルギーに溢れているのが嬉しい。文太兄い、実は役者としてはこっちの方がハマリなんじゃない、と思えるほど。まくし立てる広島弁(映画の中では倉島市だから倉島弁か)の威勢のよさと、画面狭しと暴れまくるアクションシーンの激しさは、聞いて楽しく観て楽しく、頭が地下道へ転げ落ちるシーンにさえ、隙のない娯楽性を感じてしまう。
だがその威勢のよい暴れっぷりの裏に、一種やけっぱちな悲愴さを漂わせているのも事実。それは、エリート刑事・海田(梅宮辰夫)が登場し、“情より理”の県警組織VS.“理より情”のヤクザ組織(及び警察内の古参勢力)の対立構図が鮮明になると、一層浮き彫りになる。そして現代に生きる我々は、この二つの価値観の対立が、いつの時代にもある普遍的な対立軸などではなく、すでに決着済みの問題であることに気づき、慄然とする。まるで第二次大戦時の日本とアメリカの戦いを見ているようである・・・。
ヤクザ・広谷(松方弘樹)も刑事・久能(菅原)も、新興警察力の“力”の前に敗れたのではない。情より理で押しとおすその価値観に抗いきれないものを見ていたのである。何故なら、彼ら自身、実は自分たちも「情より理」の世界に生きていることを知っていたからだ。そしてその理が“利”と密接に結びついていることも・・・。自分なりに理を説いているつもりの久能が「いつから説教する立場に変わったんだ」と広谷に詰め寄られるシーン、またアカ嫌いの古参刑事に「なんだお前はアカみたいなことを言いやがって」と責められるシーンは象徴的であるし、老いぼれながらも細やかな情を感じさせる大原(広谷の組の親分)が、あっさり県警側にとり込まれてしまうのはそれ以上である。
むろん深作(製作者)側は「理より情」の心情を代弁している。理と利が不可分であることを敢えて強調するあたりに、そんな意図が感じられる。だが今見ると、その屈託のない明るさに、なにか健全なものを感じてしまう。そんな部分も含め、観終えて言いようのない悲しさが重くのしかかってくるのを感じた。あとから振り返れば、あんなふうにみんなで酔っ払っておだを上げていられた時代が一番幸せだった、ということになるんだろうか・・・。
90/100(02/06/01記)
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