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[コメント] 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(2007/日)

なにが濃いって、1470円もするパンフが濃い。これを読むと、いままで不可解だった連合赤軍事件への理解が相当進む。映画要らないほど。ん?
G31

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 序盤は、60年安保闘争を起点に社会・学生運動のうねりを描き、70年安保を控えて再び熱を帯びる様を、合間に当時の記録映像を挟みながらダイジェスト的に描いていく。なんの技巧もない記録映像からは、むしろ社会の息吹きを感じて興奮を覚えたが、現代の役者の演じるドラマ部分が浮ついて寒々しく、いかんともしがたい。なんだ結局こんなの見せられんのか、と鼻白んだ。

 だが中盤になるとドラマ部分も熱を帯びる。山岳ベースに終結し、統合された革命左派と赤軍派が、微妙に主導権を争う中から、森と永田というリーダー格が浮かび上がり、互いに互いを奇妙に補完しつつ、支配権を強めていく。私自身は、この総括事件について、森(地曳豪)と永田(並木愛枝)という少しずつ特異な人格が偶然にも邂逅することがなければ起こり得なかった、多いに特異な事件、との印象で受け止めた。他のメンバーは、普通に誠実な若者たちだったと思う。自分自身のことを考えるよりも、社会全体のことを考える傾向が少し強かっただけの。だから現代でも、もし同じような状況が生まれたら、同じような事件が起こり得る、と考える。

 映画では、終盤、加藤兄弟三男の元久(タモト清嵐)が放つ台詞、「勇気がなかったんだよ!」がこの事件の総括とされている感じだ。俺も、あんたも、勇気がなかったから、仲間が仲間の手で殺されていくという、凄惨なリンチ事件を目の前にして、身を張って止めることができなかった。監督・若松孝二から、この事件の参画者に突き付けられた総括だ。実際、パンフに寄せた手記で、参画者の一人、「山荘」へ至る前に逃亡した前沢虎義(映画の中では、記憶にあるのは逃げていったシーンだけだが、辻本一樹という役者さんが演じた)は、こう書いている。

「映画『実録・連合赤軍』で、『勇気が無かった』と云われた。一つの真実だと思う。」 (こういった手記が読めることだけでも、このパンフの価値は貴重だ)

 私はこう思った。「勇気の無かった」人間の弱さとは、自分の弱さに向き合うことのできなかった弱さなのだ、と。自分の弱さを自分で認められないがゆえに、自分と同じように弱い仲間が殺されていくのを目にしても、自分も同じように殺されるべきだとは思えず(思ったことを認められず)に、ただ自分が死にたくがないために押し黙って遣り過ごさんとし、あまつさえ仲間への攻撃に手を貸す。それは、社会が個人に求めるものが、表層的には「強さ」でもあるからだが(そしてそれは今でも変わらない)。だから、仲間たちの弱さを全身で受け止め、反撃することなく死を受け入れた(リンチ事件の)被害者たちこそが、私にとっては英雄である。

 終盤、あさま山荘攻防パートを最も楽しんで見た。本作の中で一番アクションに満ちたシーケンスが続くので当然とも言えるが、それだけではない。それまで無個性でよくわからなかった彼らのキャラクターが、ここへきてようやく鮮明となり、躍動し始めたからである。

 率直に言って、榛名・迦葉両ベースでの総括パートは、登場人物が多すぎ、指導者的役割の数名を除くと、誰が誰やらさっぱり分からん状態だった。「実録」をうたっているからだろうが、所詮役者が芝居を演じる映画なのだから、もっとエピソードを刈り込み、必要なところには色をつけてもよかったのではないか。加藤三男の「勇気なかった」発言にしても、顔をクシャクシャにして泣き出さんばかりのお芝居では、あまりにも分かりやす過ぎる。もっとさりげなく、自然な感じでこの発言が出るように、中途にフィクショナルなエピソードを差し挟んでもよかったと思う。総じてこの作品には、フィクションが足りない。

 冒頭の「事実に基づくが、一部にフィクションがある」との断り書きは、ただの言い訳か、映画としての敗北宣言のようにしか思えなかった。

75/100(09/11/23記)

(評価:★3)

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