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[コメント] 青い春(2001/日)

それぞれのSingularityを獲得しようとする物語。(注:原作未見)

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







もちろん、人は、存在する限りにおいて、すなわち、生まれ落ちた瞬間から、おのおののIndividualityを持ってはいる。しかし、それは、世界において自らが占める席(la place、場所)を持っているということ、自らの世界を持つためのパースペクティヴを与えられたにすぎず、それはその存在者の真のSingularityではない。

我々に与えられた<席>とは、「与えられたもの」である。その時点での諸存在者の違いは、平面的座標上の位置の違いにすぎない。それは、遺伝子であり、環境であり、作品中では、九条(松田龍平)の「冷たさ」であり、青木(新井浩文)の「熱さ」、雪男(高岡蒼佑)の家庭環境であり…。それらは、Singularityの一部であり、Singularityを形成する基盤であるが、平面的座標からの突出するベクトルとしてのSingularityとは区別される。

Singularityは、先天的な席に基づいて、後天的に形成されてゆく。幼少期には、Singularityのベクトルは小さい、すなわち、個々の個体間の差異は小さいということは、子供の頃は誰とでも仲良くできたという経験的なものからも理解できる。それゆえに、九条と青木は親友たり得たのである。しかし、年月を経て、それぞれが自己のSingularityを形成して行くに従って、当初は小さなものでしかなかった席の距離が、Singularutyのベクトルが伸びてゆくに従って、大きな開きになっていく。

しかし、我々は、Individualityを維持するためにSingularityを強く形成して行かなければならない。なぜなら、多数の中の一者、代替可能な一者として畜群の中に埋もれることなく、群衆の波の中に確固たる位置を得て、突出しなければならないからだ。それがIndividualityであり、全体化という幻想の名の下に自らの存在を無に帰さないこと、つまりは生きてゆくということなのである。

この形成がもっとも顕著に行われるのが、十代であろう。それは、身体的な影響(成長期、脳の形成 etc.)もあるだろうし、Singularityを形成するために必要な能力(知性)と材料(知識)を揃えることとも連動しているだろう。それに加え、彼らは高校三年となり、閉じられた学校から、無限に開かれた社会へと出なければならない。構成個体の少ない学校内では、特異性としてのSingularityを確保することは容易い。しかし、社会に出ると言うことは、全存在者の総体へと組み込まれることである。限られた平面において、その平面の広がりと突出のベクトル、両者の比率は小さい。それゆえに、限られた平面では、少しの突出で十分にSingularityを確立できていたものが、無限の平面においては、その突出は、森の中の一本の木のように目立たなくなってしまう。裏庭の木は、一本の「杉」として、自己の存在を確立しているが、森の中の杉は、「森」という存在に吸収され、杉としてのSingularityを失い、「森」を構成する「木々」に成り下がってしまっている。

彼らは、しかし、席としてのSingularityだけではなく、それに加えて自ら、ベクトルとしてのSingularityを形成することが出来る存在、すなわち人間である。それゆえに、彼らは悩み、闘うのである。

雪男は、自分のベクトルとは逆のベクトルを持つ大田(山崎裕太)を殺すことによって、すなわち、自分のベクトルに対する反作用をうち消すことによって、自分のベクトルを強化し、現状から抜け出そうとする。

木村(大柴祐介)は、自らのSingularityとしての「甲子園」を失い、新たなベクトルを得るため、ヤクザの道を選ぶ。

青木は、強いベクトルを持つ九条に従うことで自らのベクトルも強化されると信じていたが、逆に、自身のSingularityが薄められていることに気づき、九条から離れ、対立し、自身のSingularityを際だたせようとする。

九条は、彼らのこのような行動力に対し、あこがれを抱き、また、離れていく彼らに一抹の寂しさを感じながらも、ただ何もせずにいる。それでも彼のSingularityが際だっているのは、彼に与えられた席の特性として、他の存在から離れたところに自らの場を与えられたいるということに基づく。それゆえに、まず、森の中の開けた場所に立つ木のように、その存在はそのままでも際だつ。また、他の存在者から離れていることによって、自らのベクトルに対する他のベクトルの反作用が少ないから、ベクトルも大きく伸びる。周りに木が少なければ、それだけ養分を吸収できるように。

これらの物語は、手垢の付いた言い方をすれば「自分探し」とも言い得るかもしれないが、正確には「自分作り」といったものである。我々には、Singularityを作り出す能力がある。しかし、その力は諸刃でもある。ベクトルを強くしようとする、あるいは、無理な方向へ伸ばそうとすることは、自らを与えられた席から引き離すことになる。雪男は、強い力を使いすぎて、席を立った。青木は、無理な方向へ強い力を加えたため、席から剥がれてしまった。そして、我々は、席から離れないようにしすぎるために、大衆の中に埋もれてしまっている。

九条が「学校は天国だよ」と言うが、九条のように特別な席を与えられた人間ですら、何もせずにSingularityを持ちうるのは、学校という限られた平面の上でしかない。平凡な我々は、諸刃の力で、自らを傷つけながらも、Singularityを獲得するために戦い続けなければならない。

要するに、この映画が好きってことです。

(評価:★5)

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