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[コメント] 崖の上のポニョ(2008/日)

あのどうみても妖怪であるあのポニョの 動きがサカナに見えるのが凄い。

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







鑑賞後の清涼感は無いけれども、味のある作品。

<キスで泡が弾けた瞬間、その大きくなるポニョの頭身が、“体が先に大きくなって、顔が続く”という描写によって、ポニョが一瞬、大人びて(といっても十代前半に)見えるよね!?>

■「人魚姫」■

「人魚姫」という物語の骨格を、男性目線だけから解釈すれば、「泡となって消える人魚姫」という存在は、フィクションの象徴。幻想の理想の妄想の女性を、あり得ない存在であるそれを、捨てた…、否定した、…そういうものと決別した。そいういった物語であろう。

その前提で、「人魚姫」なる存在を最終的に認める物語というのは、見立て直せば「牡丹灯籠」。あの幽霊を相手に廃墟に通い詰める病んだ男…その幻想を相手に引きこもっている男…言い換えれば、二次元に逃避するオタクとも言える状態を、そのままで肯定しているようなもの。<注>牡丹灯籠状態であって作品の結論ではない。あの作品も最終的にはその状態を否定している。

だとすると、当にオタクのためのオタク肯定アニメであるとも言えよう。これを早々と五歳児から「洗礼」してしまうと言うのならば、そら怖ろしいものを感じてしまう。

それは睡眠障害だか朝食推奨番組だかで見た映像…言葉も未だはっきりしていない三歳未満児が、親の寝ている枕元で一晩中ジブリアニメを見ている…固定カメラ映像を思い出す。正に言葉の要らない幼児が、自分でDVDをセットして再生。テレビの明かりだけの寝室で、じーっとただ立ちつくす児童。朝の訪れと共に崩れ落ちるように眠る。…これが、監督の言う「子供向け作品」の神髄なのだろうか。その驚異的な力には、背筋が寒くなる。その究極たるこの作品が発揮するであろう破壊力とともに…。

■本質的な説明したがり■

頭でっかちな大人を否定しても、なんだかんだ言っても、当の本人が説明したがりなんだな。抑えていても出てしまうその説明したがりが…、

例えば、

「カンブリア紀にも比肩する生命の爆発」だとか

「デボン紀の海に戻ったよう」だとか言わせてしまう。

「人魚<=>人間」の変化・変身を、進化に模して表現せずにはいられない。

中間体をカエルのようなトリのような姿で表すだけでは気が済まず、「血を舐めた」「DNAを複製した」と、その科学的屁理屈に基づいた設定であることをいちいち聞かせてしまう。

また、平然と泳ぐ古生物の名前を、いちいち宗介に呼称させてしまうことで、そこで動かされている動画が、科学的再現の試みでもあることを誇張する。なんとも説明臭い。

グランマの「あら。私たちはもともと泡から生まれたのよ」との台詞も、

ポニョの「ハムが好きv」なんて設定も、いかにも作為的だ。

一説にカンブリア爆発の形態の多様化は、肉食の始まりであるとも言われている。つまり捕食者の暴食の効率化の変化と、被食者の側の綿密な防御、擬態、反撃等々…相互の様々な戦略の過剰化こそがカンブリア爆発であると。そんな説を下敷きにしてこそのポニョのハム好きなのであろう…とか。 生命の始まりは自然現象で生じた泡の膜間の電位差をエネルギーとして利用される中で生まれたのだとも指摘されている(プロトンポンプ)。

これでこの作品を「説明が足りない」などと言ってしまう「大人」こそが、むしろ未だに“こども”だと言われるべきなのでは…。それは視聴対象として想定されているであろう“ちっちゃなこども”ではなく、思春期にありがちな“知りたがり”のこども(中二)…。

■意図的な捻りの表現■

リサ「〜なんて言っちゃダメよ〜」「人は見かけじゃないんだからね」

…と口先では言っているけれども、心はそうは言っていない。そのような行為の繰り返しの中で、子どもは実感を学んでしまう。「ミンナは、〜って言うものなのだ」「ミンナは見かけが重要なのだ」と。本音と建て前と言い換えても良いようなそれを。 母の教育のなんたるかを、かなり露骨に皮肉っている。

クミコ「ヘンなの。デブだし うちの金魚の方がカワイイ」

子どもとはいえ、彼女は客観的な事実を素直に言っているのではない。そう描かれている。 自分に対して愛想の悪い態度を取ったその物体に対し、侮蔑の言葉で報復している。子どもとはいえ腹黒さは持っていると表現したいのだろう。 それを強調する為に、ポニョがプイっとそっぽを向く態度を取られる前までは、期待と甘えの声でポニョを見ようとさせている。「あ。金魚♪」「ポニョ? みた〜い」と。これは、朝一の対面の場面(新しい洋服を自慢)の繰り返しとしても強調している。

トキ「そんな奴に騙されちゃダメだよ」

「うまいことを言ってみんなを連れて行ってしまったんだ」

「わたしは騙されないからね」

「嘘ならもうちっとましな嘘をつくんだね」

「美味いことを言う相手」を、発言が「美味いこと」である事を理由に拒絶していては、その者は、永遠に決して美味い目には会えない。時には素直さが必要だ。 確かに社会には美味いことで人を釣って食い物にしようとする者は少なくない。騙される事態には決して落ちない為には、これを頑なに守ることが処世術としては合理的であろう。しかし、それが絶対でない事をここでは描いている(視聴者にフジモトに悪意が無いことは明らかな状況でで発せられる)。かなりステレオタイプな定番の台詞を、あえて逆さまに設定して描いて見せることによって、視聴者に自覚を促している。

ポニョ「おかあさん と〜〜っても恐いよ

宗介「リサみたいだ

リサ「(笑/喜び)

これも、表現と評価との捻れ。「恐い」という表面的な否定的形容とその意味よりも、そうは言っても穏やかに落ち着いている子どもの姿が親を信頼しきっている心が、幸せを確認させる。

これらは、冒頭に念入りに描かれた“ゴミダメの海”を「豊かだ」と言わせていることとも、テーマとして通底しているのだろう。

子どもの視点からは、ポニョの脱走が、進化が、魔法の使用が、嵐を引き起こしたかに見えるように描かれてはいるが、物語のバックグラウンドとしての世界を、普通に描いてもいる。宗介がポニョを拾った段階で既に、「変な風ね」と言わせ、その様を描写している(魔女宅も連想w)。そして、観音様の御身渡りと言われたグランマンマーレの来迎とも無関係ではなく、予め予定されていた自然現象でもあるかのように示唆している。

よって、物語の終わりで宗介に託された“決断”ってものも、「世界の運命が一人の子どもに託された!」…だとかいう、バブル時代にそうであったマッチョなヒーロー描写ではなくて、この段階での決断によって、宗介が、彼が、「サツキ」になるか「千尋(湯屋に行く前)」になるかの分岐点であることを示唆しているのだろう。個人にとって世界との決別って奴は、その者にとっての世界の終わりであることに違いはない。それは千と千尋のメッセージと同じ。監督は、偶然や異常と言って、目の前の現実を自分とは関わりのないものとして、切って捨ててしまうような人間ばかりが増えたことが、世の中を悪くしているとの判断から、正にその選択を、分岐点を、“世界の破滅”と重ね合わせて描いて見せているのだろう。

個人にとっての死は、世界の終わりにも匹敵するが、他人の死は平凡な日常の当たり前の背景でもある。

・子どものお留守番

それが我が身にとって危機であると感じれば、それはその者にとって世界の終わりにも匹敵する。それが客観的にどれほど安全であり、脅かすものなど何も無いとしても。それが、子どもにとっての“おるすばん”というものだろう。

そして、「死の象徴に溢れている」とも評される作品内のリアリティは、子どもの目の前に現前する世界そのものであり、子どもにとってのリアリティの、いわば大人に対する判りやすい読み替えでもある。

いや、相対的に上位者から見れば、大人であっても、それは同じ事だ。日毎の政治が世界情勢がどれほど危険だ危機だと騒いでも、人類史規模で見れば、なんということもない日常だ。 温暖化が人類の存亡に関わると言っても、地球史的に見れば、なんてことない。そんなことで地球の生命は消えさりはしない。多くの動物が絶滅したとしても…。

■???■

唐突で説明があってしかるべき場面も無くはない。私にとってそれは、例えば…、

・リサが唐突に職場に戻ると言い出す場面。

「誰か居る」と窓の向こうを窺うという流れの演出や、主人公に「初めてのお留守番をさせる」時の母親の対応の理想的な例示したいだとか、これはその後ポニョと宗介を二人旅させるための条件だし、フジモトに拉致られて(?)車だけが残っている処に宗介を出会わせるためだとか、両家の親御の間で「二人の試練」を打ち合わせ演出していることを前もって示しておきたい監督の意図も良く判る。

ただ、もう少し母親が子を残して職場へ向わせる必然性を事前に示しておいて欲しかった。もちろんこのような振る舞いは、「女房・子どもを丘の上に残して!」とリサの非難した耕一の態度と同じ。共通するものでもある。似たもの夫婦だとも言えるけれども、自分を慰めた宗介のエピソードを受けて、もはや一人家へ安心して残していられるという成長を見たから、とか思い当たるところが無くはない。のだけれども、台風(?)の家に子どもを一人残して職場に戻ると言い出す母の態度に違和感は強く残った。上記の肯定的に示したエピソードも、私には違和感として作用した。

…光に誘われるは魂?

・赤ちゃんを抱いた婦人とであうシーン

同じ作品の中に押し込めたいテーマとして、どこかに織り込みたかった台詞なり対応なのであろうけれども…、名前もクレジットされないキャラクターにさせるそれによって担わすには、なんとも違和感を覚えた。もう少し上手く織り込めなかったのかと、気恥ずかしさも感じてしまう。

深読み曲解して、この夫婦は実は、ポニョの二人の成長を促そうとしているグランマンマーレとフジモトとが化けた姿なのではとか考えたくもなったけれども、そうではないのだろう。

過去か未来か幻か…。

■皮肉■

リサ「運命ってものがあるんだよ」「辛くても運命は変えられない」

「ポニョは海で生きるように生まれたから、海に戻ったんだって思うな」

ポニョと海で離れてしまった宗介が惚けている時の、リサの励ましの言葉。これらは、子どもの心には全く届いていない。その後の宗介が逆にリサを励ましているのも、この言葉が効いたからではない。子どもならではの、幼さの結果だ。リサは自ら世界観を自己満足的に語っているだけ。いや、自己暗示的に…と言った方が相応しいかも。

そして、耕一が帰れないと知った後のその露骨な荒れ方と、その後のフテっぷりは、宗介の惚けとの対比にもなっている。のだろうけれど、それに対してどちらの態度が真に相手を元気付けるか…をも表している。こういう対比によって、監督は大人の屁理屈を無意味と否定する自らの言葉を後援しているのだろう。

・「半漁人でもいい?」

半漁人(カエル形)を、宗介やリサが見てそうで見ていないというようなシーンが強調されていてこそ、クライマックスでの「半漁人でもいい?」というグランマの台詞は効果的なのだろうけれど、そうはなっていない。なんともサッパリしている。

細かく見れば、きちんと繊細に描かれているのだが、子どもには気付けるのか疑わしいほどにさりげない。登場人物と同じように、当たり前のように多くの視聴者は見過ごしていることだろう。

正体を見たら嫌われちゃうかも…

見られなかったみたい良かった…

…というような、いわゆるな表現は強調されていない。定式では、オドロオドロしいBGMに乗せて、画面を僅かにズームしたり、急に曲調を戻して笑いを誘ったりする場面だ。

しかし、そのような描写こそが、上の大人世代にそう感じさせる価値観を植え付けてきたからこそ、そうでない今回の場面にすら、おそらく多くの視聴者は脊髄反射的に緊張感が引き出されたことだろう。その事をもって、無自覚な子どもを前にした大人の側に、自覚を促している…とも言える。そもそもそのような価値観のスリコミを、新しい子ども達にはさせたくないというのが、監督の意志であり意図なのであろう→大人批判。

むしろ、そのような見方をしてしまっている大人の観客をハメて、子どもの側からいっしょに笑っているのかもしれない。

・不平不満ばっかり言っているとも見えるトキの態度

折り紙の小金井丸をバッタと言い張っているのも、昼の出来事を引きずっている彼女としては、ヨシエさんたちと同じ金魚が欲しかったからではなかろうか。あえて不満を表明することによって、やり直しを、出来事のリセットを期待している。そんな繊細さを子どもに期待してもしょうがない。宗介はスルーする。

とはいっても。 子どもが素直に育っていることを、子育てのキモは抑えている母として、例えば…クイズ形式で自らの行為を注目させて見せる…とか、ゲーム的にみせかけて「お預け」をさせるテクニカルな対応…とか、そういった形で提案はされている。

■蛇足・雑感■

●ポニョの本名「ブリュンヒルデ」…ポニョだけに、これも“ぷにゅんヒルデ”としか聞こえなかった。

●ワルキューレ長女ブリュンヒルデの名は、戦死者をあの世に運ぶ者…死に神みたいな存在を付しているのだろうか。であるなら最初に示した「人魚姫」の私の解釈に相応しい。

●魔法を使っている時に退化する表現は、科学技術を使っているほど、人間は個体として 幼稚化することとを対比させているのかな。

●トキとクミコが接続点…両者は重ね合わされている。衣装の色だとか、デブやバッタと言ってしまう失言癖とか。

★なによりも根本的に、海のサカナをいきなり水道水に放り込んだら、死にます!!

■みんな死んであの世で幸せ■追記<20100207>

最後の空間。監督が、あの世で共に暮らしたいと願い選んだ者たち。

必要>

グランマ… 世界・自然

フジモト… 知恵・知識(不死の元)

リサ  … 守護者(女に限る)

二人の老婆… ジブリ信者・お客さん(何でも誉める・批判はしない)

捨てるかどうか迷った>

トキ  … 時つまり時間≒老衰という現実

不要>

耕一(父親)… 大人、責任

久美子  … 我が儘(他人の自己肯定感への配慮)

あれ? どちらも漢字表記だ…。国学的に「漢字=異文化」否定、「原初=真字・仮名」かな? いや、仮名は漢字と原初との間に生まれた子ども…か。

(評価:★4)

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